特にこの日でなくたって、ここいらはそれは静かに朝が来る。向こう三軒両隣り圏内に、牛乳や乳酸菌飲料などなどを取っている家もないので、新聞配達のスクーター以外、こんな早朝にはやって来ない。そんな静かな住宅街の、やや奥まった突き当たり。大邸宅とまではいかないが、サザンカやキンモクセイの茂みがきれいな、小じんまりとした瀟洒なお屋敷があって。お隣りの小じゃれた車輛工房も、さすがに今日はお休みで、やっぱり音なしの構えなものだから。頭上の天穹が黎明の白から初陽の目映さ経由、清々しい青空へと塗り替わっての、すっかりと明けてから、
「………あ。」
窓辺近くの木の実が目当てか、訪のうた小鳥のさえずりでやっとこ目が覚めたとて。今日ばかりは大目に見られてもいい筈で。日本中が、いやさ、世界中が、昨夜の日付変更時には、お祭り騒ぎをしたほどのお目出度い日なのだし、大人の皆様は何やかんやで夜更かしもしておいで。とはいえど、
“しまった〜。寝過ごした。”
主婦として歳時にまつわる年中行事の様々を任されている身としては、一年の計が鎮座する元旦からうっかり乗り遅れるなんて言語道断。今日の善き日を迎えるためにと、年末に精一杯頑張ったのが、寝坊なんぞで無に帰してしまうなんて、
“冗談じゃあないっ。”
ぐぐっと握りこぶしを作ってそれから、がばちょと勢いよく、その身を起こしかかったものの、
「…う。」
ちょっと少々、腰の辺りが だる重かったりし。あれれ、何でだと思ったのと同時。寝床へ肘をつき、少しほど身を起こしたことで、すぐ傍らにいた共寝の相手のお顔が視野に入って…。
「…。//////////」
肩口からさらりとすべり落ちた、くせのない金の髪の陰にて、うつむいた白いお顔に、仄かながらも朱が散って。ああそうだったと思い出す。
“何でそうも毎年毎年…。//////////”
夜更けに除夜の鐘を撞きにまでは出掛けないその代わり。一体どういう縁起かつぎなものやら、年またぎの“二年参り”を、別口のことで…毎年毎年必ず遂行なさる、精力的な御主だったりするものだから。もしかせずともそれが原因で寝過ごしたんだなと納得しつつ、
「…勘兵衛様、起きておいででしょう?」
寝床の上へきちんとお膝を揃えて座り直すと、穏やかそうな寝顔を見下ろし、端とした声を出す。
「寝過ごしましたが、予定通りに運びますからね。」
「予定?」
何のことだと訊く声へ、
「皆で御膳を囲んで、お屠蘇を交わして。それから初詣でへも参りますからね。」
元旦というくらいです、午前中に片付けなければと、
「大島の袷(あわせ)も出しましたよ。久し振りですね、和装をお召しになるのは。」
もうすっかり目を覚まし切ったらしき、澄んだお声が紡ぐのへ、
「何も律義に浚わずとも…。」
誰ぞからの罰が下る訳でなし、と。なし崩しに怠けようよと持ちかける御主へ、
「ダメです。」
それはきっぱりとしたお声が、断固とした拒否を示して。
「だがな…。」
「それ以上の駄々をおこねなら、いっそのこと紋付き袴を着ていただきますよ?」
「う…。」
そんな大仰な恰好をさせられては堪らないと、壮年殿の精悍なお顔が少々引きつったのを見届けてから。
「せっかく色々と準備したんじゃありませんか。それに…。」
何か言いかけたのは、だが、言わぬままに飲み込んで。パジャマのボタンへ手をかけながら、てきぱきとした所作にてベッドから降り立つ七郎次であり。
“別に罰則があるじゃなし、大手を振って休んでいい日のはずだってのに。”
こちらはこちらで薄目を開けて、気丈な背中をこっそりと眺めやる御主だったりし。
“…そうまで久蔵に堪能させてやりたいか。”
自分たちだけなら、そこまで律義には構えない。一応の準備はしてあっても、だらだらしたいと言われりゃあ、そうですねぇと御主の意に添うよう計らった筈。
―― ただ、今年は少々事情が違うから。
昨年の春から最年少の家族となった、寡黙な次男坊がいるものだから。それでと張り切っているものを、一体、誰が止められようかというところ。ぎりぎりの昨夜まで、忙しそうに働いていた彼だったから、出来るだけ深く眠らせてやっての、長く長く寝床へ引き留めておいてやろうと、これでも思いやっての企んだ御主ではあったらしいのだが。
……… 方法を選ぼうね、勘兵衛様。(苦笑)
◇ ◇ ◇
さあさ支度をと、ご当人はまだ普段着のままでの腕まくり。まずはキッチンへとおっ母様が足を運べば、
「…。」
「おや、久蔵殿。もう起きてらしたのですね。」
南を向いた窓が全て、すっかりと明るんでいるそんな中。冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトルを掴み出してた、トレーニングウェア姿の痩躯と鉢合わせた。金の綿毛のところどこ、少々しなりと濡れていて、髪を押さえぬままの無造作に、顔を洗ったからだろが。お顔や視線にしゃんとした張りがあるところを見ると、目を覚ましたそのまま、毎日の日課である竹刀の素振りをしていたらしく。幼いころから親しんで来た剣の道なだけに、元旦だろうがお盆だろうが、関係なくの行動なのだろうけれど。
「ごめんなさい、お腹が空いたでしょうね。」
すぐに支度をしますねと、お雑煮用にナベをかけようとした七郎次が、あ、そうそうと思いついたのが、
「そうだ、若水。」
確か、その家の若い者が汲んだ最初のお水でお雑煮は作るんじゃなかったか? そうと思い出したおっ母様だということが、傍らにいた久蔵にも、こんな短い一言ですぐさま通じたらしいその証拠。
「………水道。」
しかも浄水器つきのここから汲むという行為には、初物という神聖な意味が果たして宿るのかと。こちらさんも大層なずぼらをしての、たった一言と共に蛇口を指さした次男坊であったりし。そしてそして、またまた意が通じたからこそだろう、ちょっぴり照れ臭そうに“たはは”と笑ったそのまんま、
「いんですよ、気持ちです。」
気にしないでと七郎次が続けたりもし。………正月早々、とんでもなくのツーカーです、この母子。(笑)
「…。(頷)」
おっ母様のお手伝い自体は嫌いじゃない次男坊、承知と頷き、手渡された両手鍋へと水を張る。その間に出し昆布と、お雑煮用にと用意してあった一式を、冷蔵庫から取り出した七郎次だったが、
「…。」
水を汲んだぞとそちらを見やった久蔵が、その赤い双眸を少しほど細めたのは、母上の見せた何げない所作が…少々気になったからに他ならず。きっと無意識のうちのそれだろう、本人も気づいてはいないのかも。だがだが、昨日までの忙しさの中では一度も見せなかったものだっただけに、おやと久蔵の注意を留めさせるには十分な要素でもあって。
「えっと、水菜と大根にニンジンと…。久蔵殿はお雑煮へお餅幾つ入れますか?」
他にも煮染めや何やがいっぱいありますから、小さいの二つくらいにしときましょうか? などと、屈託のないお顔で訊く母上のすぐ傍らへ。相手へ合わせて、こちらも中腰にとしゃがみ込むと、
「…シチ。」
「はい?」
名指しのお声をかけたはいいが、後が続かず。
「………。」
「久蔵殿?」
ただただじ〜〜っと見つめてくる赤い眸は、ちょっぴり陰っての何か言いたげ。
「どしました?」
言いにくいことでしょうかと、小首を傾げることで訊いている、そんな母上の手が…またさっきと同じ所作を見せたので。
「…。」
きれいな拳がとんとんと叩いて見せた、淡色のカーディガンに覆われた…背中と腰の境目辺りへ。腕を伸ばして、その手のひらを伏せると、いたわるように撫でてやる久蔵であり。
「あ…。//////////」
やはり無意識のうちの行動だったか、さりげない指摘をされたことで、おっ母様のお顔がたちまち真っ赤になった。
―― いやあのえっと。
あ・そうそう、あのあの。//////////
久蔵殿のようにお若い人はそうでもないのでしょうけれど、アタシくらいに年が行くと、すぐ直後じゃあなくの次の日に、筋肉痛とか出るものなんですよねと。大掃除やら今日のお料理の下準備やら、昨日の大みそかまで忙しかった、その後遺症ですよと言いながら、苦笑して見せたのだけれども。
「…?」
物言えぬ仔犬が見せるそれのよに、かくりこと小首を傾げての、真摯な眼差しにて見つめられては、
「…うう。」
誤魔化し切れずにたじろぐところが、おっ母様、まだまだ純な正直者だったりし。でもでもそれじゃあ…誤魔化しを誤魔化しと見抜いた久蔵殿には、一体何をどう言えば納得なさるというのだろうか?
「えっとぉ。//////////」
ああどうしよう。これがどうでもいい相手であったなら、それこそどこかの策士殿直伝の機転を利かせ、詭弁やその場しのぎの虚言を連綿と並べての積み重ね。そりゃあ上手に言い抜けられもするというのにね。いわゆる閨房艶話なだけに、普通一般のご夫婦でも、自分の子にそんな話はなかなか出来まいし、かてて加えて、自分と御主は…いわゆる同性同士な訳でもあって。あからさまのいきなり口に出来ることではないし、さりとて、どんな嘘で糊塗すりゃいいのか見当もつかない。
「あ、あの…っ。」
適当な言いようでは誤魔化すことも出来ない相手。選りにもよって元日の朝っぱらから、妙な方向での絶体絶命、金縛りにあってしまった七郎次だったのへ、
「…大事ないか?」
助け舟を出したのもまた、彼をそんな窮地に追い込んだ当の本人様だったりし。
「はい?」
今、何と仰せになりましたかと。膝頭をフローリングの床へと落としての、愕然としつつ訊き返せば、
「力づくとか、無体をされてはいないか?」
「…はい?」
「いくら夫婦であれ、遠慮や我慢をせずともいいのだぞ?」
「は?」
「島田は体格がいいから、シチも何かと辛かろう。」
「はいぃい?」
…………………………… しばらくお待ちください。
◇ ◇ ◇
ああ、それな。師走に入る前、いやもっと前だったか、儂も重々と言い置かれたぞ? 壮年という桁で収まらぬほどの体力なのは判っているが、シチにあまり無体な真似はしてやるなとな。同居を始めた最初の辺りから、とっくに気づいていたらしいぞ? 何せ、木曽でのあやつの剣の師匠は、元は木曽の御爺の御伽衆の一人だったらしゅうての。向こう…というかあの家では、さすがに言い触らすことじゃあないものの、だからといって後ろ暗いことでもなくの、特に秘め事とはされてもなかったらしくてな。
「…そう、でしたか。」
呆然としてしまってたおっ母様の一時停止を解いたのは、お顔を洗っての遅ればせながら…手伝うつもりはないながら、さりとて人のいる気配に引かれてか、キッチンまで足を運んで来た勘兵衛様で。
『いかがした?』
『島田。』
久蔵がこれこれこうでと言い出す前に、はっと我に返った七郎次、
『あ・いや、そうですか。気がついてらしたのですか。』
恐慌状態になりかけていたところを押さえ込んだがため、随分と張り詰めた胸中を抱えたまんま、それでも雑煮や屠蘇を支度し、お重や何やを取り揃えてのさて。勘兵衛には様々な青や濃紺の細やかな縞が繊細な、大島紬の袷と羽織。久蔵には秋も終わる頃合いに揃えた、濃灰色の地のところどころに銀絲のひそむ巧みな織りのやはり袷をと、家人らに晴れ着の和装を着付けさせて、それからそれから、自分も…こちらは淡い紫の小袖を着付けておれば。様子を見に来たらしい勘兵衛から、それは飄々と久蔵から灸を据えられた話を聞かされて。
「それにしたって。だったら、そのときに話してくだされば。//////////」
「言うたとして、今と違う反応や対応になったのか?」
「う…。」
「顔を合わせられないとか何とか言うて、そのまま何日か煩悶したのではないか?」
「うう…。//////////」
血縁ではあれど、お互いがそれぞれ遠隔地に住まう身であったため、さして関わりはなかった間柄。子を育てた経験もないのに、それでも自分を引き取ってくれたのは、拙いながらも親代わりをしたいからだと言ってくれた二人だから。
「父と母とを請け負う以上、夫婦ものであっても不思議はないと。」
「…そういうものなんでしょうか。」
久蔵殿が既に納得してらした…という事実自体は、こちらへこそ衝撃だったものの、彼を傷つけなかったなら重畳、ではあるのだが。
「やっぱり判ったその折にそのまま言っといてほしかったです。」
「だから、こそこそと隠し立てしての無理から声を堪えずともよいと、再三言っておったろうが。」
「それは…防音設備が整っているからだとしか仰せではなかったですよ?」
正月早々、何だかややこしい動揺に振り回されているおっ母様で。今年の島田さんチも、なかなかどうして波乱がいっぱい待ち受けていそうな幕開けでございます。
「………とりあえず。」
「はい?」
「雑煮を早よう食わぬか? 久蔵も待ちくたびれておるぞ?」
「あっ!」
今年もどうぞ、よろしくですvv
〜Fine〜 08.1.05.
*というわけで、
ウチの現代パラレルシリーズは、
基本“カンシチ”ということで。(I様、見てますか?)こらこら
久蔵さんは、あくまでも養い親の両方ともが大好きです。
ただまあ、立場が弱く見えるらしく、
どっちにつくかとなると、おっ母様の味方をすることの方が断然多いです。
*お正月ネタなのでと取り急ぎ書きました。
仕立てがちょっと粗くてすみません。
この後、大人はお屠蘇を飲んで、次男坊はしょうが湯でしょうか。
それから…大人たちがやってみたかったからというのへのお付き合いで、
一人息子がお年玉もいただいての、さて。
近所の神社まで初詣でに出たご一行は、
なかなかド派手なところがきっと、見ただけでも御利益がありそうなので。
通りすがりの地域住民の皆様から、
新手の縁起物のお練りと勘違いされて拝まれそうですね。(苦笑)
ちなみに、
勘兵衛様、初夢と姫はじめは元日の夜から翌日に掛けての晩だそうですよ?
昔は正確な時計があった訳でなし、
どこまでが大晦日でどこからが元日かが曖昧だったからでしょうかね。
(何の話だ…。)
**めるふぉvv
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